田原坂

| 日時:平成14年11月8日 場所:熊本県鹿本郡植木町 |
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明治維新以後 日本最後の内戦であり、なおかつ日本が体験した最初の近代戦争となった西南戦争は ある意味、日本の歴史上で大きなターニングポイントだったかも知れないと語る人もいてます。 当時 明治政府が抱えていた問題は「てんこ盛り」でした。大業は成ったものの政界では汚職があり、社会も混迷が絶えない事に憂える士族は少なくはなかったのです。多くの若人が幕末期間に改革に血を流したのは何の為だったのか。そんな事も彼らの脳裏にはあったのでしょうか。 廃藩置県で無職となった士族へのアフターフォローって課題を、西郷さんは「征韓論」を唱えて、士族を兵隊さんとして雇うという かなり荒療治で解決しようとしたりと、今となっては色々意見は言えますが、最終的に西郷さんは戦争には敗れたけんども、乱暴な極論かも知れませんが、この日本最後の内戦、この激戦で命を落とした多数の尊い犠牲があったが故に、日本が近代国家に成長出来たのだ。と考えるのは間違いでしょうか? 尊い犠牲。その死は無駄になっていないと おいらは思います。 田原坂は北方から南下する官軍が熊本入りをするための唯一の補給陸路でしたから、薩摩軍(薩軍)は この田原坂を固める事で官軍の熊本入りを阻止してから、官軍の守る熊本城を包囲、落とそうと計画し激戦になった事は、今さら説明の必要もないと思います。 当時 薩軍、熊本隊に参加していた佐々友房氏は後年、教育家、言論人、さらに政治家としての道を歩みますが、青年子弟を教育し、国家有用の人材を養うことが今日の急務であると考えて 同志数十人と熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立、その後、大きく発展し現在も 濟々黌高校、熊本高校、尚絅高校、八代高校、鹿本高校、天草高校、玉名高校として開花し、全国的にもユニークな熊本県高校系図を形成しているのは熊本の方には釈迦に説法でしょう。 余談ですが県内幾多の激戦地も比較にならない、官薩両軍の一大攻防戦の戦場で使用された銃器は、残念ながら(?)官軍の方が有利でした。 官軍側は南北戦争でも使われた【スナイドル銃】を使用しました。 これは「元込め式(ほぼ現在のライフル銃に近い)」と呼ばれるタイプで、金属製の薬莢(やっきょう)の銃でしたから天候に左右される事はありません。 その官軍に対して、薩軍は銃口から火薬と弾丸を押し込まなければならない「先込め式(火縄銃の近代タイプ)」の【エンピール銃】が主力装備。この銃は雨が降ると発射不能になり薩軍は苦戦を強いられたそうですが、この話、田原坂の戦いで使用された「先込め式のエンピール銃」と「元込め式のスナイドル銃」の両方とも田原坂資料館に所蔵されていますので「田原坂」周辺の心霊サイターの方は先刻ご承知の事だと思います。 こんな事を思い合わせながら、かつての戦場だった公園にある「クスの大樹」の傍らにある、馬にまたがり、日本刀を振りかざした美少年像の台座に刻まれた「田原坂」の歌詞と曲の歌詞をご紹介して この辺にします・・・。 雨は降る降る じんば はぬれる こすに こされぬ田原坂 「田原坂」 雨は降る降る 陣羽(/人馬/陣場)は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱(たづな)(/左手(に生首) 馬上ゆたかな 美少年 山に屍(しかばね) 川に血流る 肥薩(ひさつ)の天地 秋にさびし 草を褥(しとね)に 夢やいずこ 明けのみ空に 日の御旗(みはた) 泣いてくれるな かわいの駒よ 今宵しのぶは 恋でなし どうせ死ぬなら 桜の下よ 死なば屍(かばね)に 花が散る 田原坂なら むかしが恋し 男同士の 夢の跡 春は桜よ 秋なら もみじ 夢も田原の 草枕 *うどん玉様、情報ありがとうございました。 |
田原坂を過ぎ、次の散策地は「七本官軍墓地」 西南戦争で亡くなった、政府軍兵士およそ三百人が埋葬されている。あまり人目には付かず、ひっそりと佇んでいる。今では訪れる方も少なく、墓地を供養する子孫の方々の訪問も殆ど無いらしい。 その為なのだろうか、深夜になると不思議な・・・奇妙な音がするとも云われている。 金属音がぶつかり合う音。足音。鉄砲を担いだ兵士の姿・・・・ 今でも浮かばれず、無念を訴え掛けているのだろうか? |
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| 田原坂と官軍墓地との差が・・・。官軍墓地は暗く寂しい感じがしました。 まっ墓地ですから暗くても良いのかなとも思いますが、あきらかに差があるような感じです。当地での両軍の御霊を尊い心静かに手を合わせたいと思います。合掌 これにて、一応の九州散策記は終了です。翌日も数カ所散策したのですが機会があれば公開したいと思います。訪れた所は、高千穂や岸岳城址などです。 |