龍ヶ崎の西洋館



参考写真:「龍ヶ崎・牛久・取手の目で見る100年の歩み」より

散策日時:平成14年3月16日
散策場所:茨城県龍ヶ崎市
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竹内農場・・・


竹内農場は今日の女化(おなばけ)を考える上で、忘れる事の出来ない存在である。なかでも、蛇沼のほとりに建てられた赤レンガの西洋館、瓦葺きの事務所、農舎、畜舎の点在する竹内農場では、目を見張るような新しい事が次々に行われていた。
竹内農場は、土佐土族、板垣退助創設の自由党幹部の一人で、明治二十三年以降三期代議士を務め、高島炭鉱、京釜鉄道、芦谷炭鉱、茨城炭鉱のち茨城無煙炭鉱などを経営、さらに常総鉄道(現関東鉄道)の初代社長に就任するなど、実業家として名を馳せた竹内網が、大正元年に女化に隣接する官有林八十町余(現在龍ヶ崎市長山町)を購入し、その子、孫に名義を移して起こした農場である。竹内網には長男明太郎をはじめ十四人の子供がいた。五男には戦後最大の政治家吉田茂がいる。茂は生まれるとすぐ網の親友吉田健二に引き取られ養子となって吉田姓を名乗った。




赤いレンガの西洋館・・・

竹内農場のシンボルは蛇沼のほとりに建てられた二階建ての赤レンガの西洋館である。一階が十畳半に四間という大きい物で、地下室もあった。大正八年九月着工で翌九年の夏完成、東京市芝区西久保八幡町の大田圓七建築部が請負っている。大正八年九月から十二月三十一日までの請求書が残っており、「四千八百九拾四円七拾参銭也」の請求となっている。総工費は七万円と伝えられている。この美しい西洋館も今は見る影もなく、屋根はすべて落ち、壁は崩れ、荒れ果てたまま雑木と篠藪に埋もれたままになっている。地下室は貯桑室に使われていたというから、養蚕もかなり行われていたと思われる。農場の周囲は土手が巡らされ、からたちの木が植えられ、東側の農場入口から桜並木が続いていた。大正三年十二月作成の「竹内家農園庭園計画図」によると、「別邸」の南側は芝生が広がり、西側の蛇沼に至るところは、梅林や桃林かあり、蛇沼のほとりには四阿(あずまや)が設けられ、乗船場まであって、舟遊びの趣向まで加えられている。この構想がどの程度まで実施に移されたかははっきりしないが、まさに芋銭の描いた「桃源郷」そのものであった。東京から宮様や著名な政財界人を迎え、農夫に採らせてきた茸を松林に植え、茸狩りをしたという話が伝わっているところをみると、この竹内農場は、初めから利益を度外視した貴族趣味の経営が行われていたと思われる。この点、神谷の牛久シャトーと似ている。それにしても、最新の農場技術がどんどん取り入れられ、女化の農民にとっては驚くことばかりであった。

この竹内農場も、大正末期には炭鉱の不況に伴い経営不振になり、一部耕作地と西洋館を残して、売却されたり、小作に出されたりして、関係者は昭和五、六年ごろに東京に引き上げて行った。女化の農民の生活の直接の支えになり(賃労働)、次に新しい農業技術を学ばされたこと、自作農創設のきっかけを作った事である。


           参考文献:牛久市立図書館所蔵 「龍ヶ崎・牛久・取手の目で見る100年の歩み」

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